喉が痛い。
頭も痛いし、胃腸の調子も良くない。
全体的に身体も痛くて、悪寒が走る。
「風邪か・・・」
ここの所忙殺されて禄に睡眠も食事も取れず、更に寒暖の差が激しく夜は冷え込んだものだが、疲れたと昨夜少しだけソファで仮眠を取ったのがまずかったか。
声に出したら余計悪化しそうで嫌だったが、認めてしまえ、と身体の方が訴えている。
ズルズルと執務机に沈むが、その動きすら節々が痛んで怠い。
完全に熱が出ているだろうが、体温計で数値を見てしまうと途端にしんどくなる気がする。
「はぁ・・・」
コンコン。
思わず溜息を付くと、小さなノックが響いた。
「・・・仕事は待ってくれない、か」
でも大分処理をしたので、もう良いんじゃないか?などと、自分の中で勝手に許可を得ようとする。
が。現実はそうもいかない。
緩慢な動作で椅子に座り直し、入室を許可する。
「入れ」
「あ、起きてた」
「・・・鋼の」
ひょこりと覗かせた顔は久しく見ていない少年だった。
自然、状態を忘れて口元に笑みが浮かぶ。
「久しぶりだな。起きてた、とは何のことだい?」
「や、ここに来る途中、中尉に会って。アンタ忙殺されてたっつーから」
今日非番の筈の副官に駅前で会った事を言いながら、トコトコと机に寄って来て、バサリと報告書を置いた。
「しばらくこっち居るし、急がねーから」
「そうか。悪いがそうさせて貰うよ」
いつもだったらすぐに手に取って見る所だが、残念ながら先に終えなければいけない書類がある。両方をこなす気力が情けない事に残っていない。
「・・・? 何かアンタ顔色悪くねぇ?」
逆光で最初分からなかったけど、とエドワードが訝しげな表情をして机のこちら側に回り込んで来た。
「少々寝不足でね」
「・・・そうか?」
旅から旅を重ねている少年に風邪をうつすわけにはいかないと気付かれないように顔を僅かに逸らした。
「心配してくれるのかね?」
「ば、んな訳ねーだろ。ったく偉そうに人に寝ろ寝ろ言ってねーで、ちゃっちゃと仕事終わらせて寝ろよ。若くねーんだから」
エドワードはまだ疑り深い表情をしていたが、からかい混じりに言うと、案の定言葉に乗って憎まれ口を返してきてくれた。
それにホッとして。
「酷いね。あぁ、資料室に新しい文献が入ったから、しばらくこちらに居るなら攻略してくると良い」
「マジ?!」
ほら、と鍵を差し出すと、子供は素直に受け取った。
「まだしばらく仕事が立て込むから、鍵はハボックに返しておいてくれたまえ」
「おう」
じゃ、とクルリと踵を返してエドワードは退室した。
「・・・・・・・・・・良かった」
再びだらしなく椅子に深く沈み、ほぅと息を吐いた。
うつしたくないのは勿論の事、勘が良い子供は、人の機微にも聡い。
口では何だかんだ言っても心配させてしまうだろう、とそれが気になっていたので、安心する。
そうして、今日中の書類に手を掛けた。
「これが終われば・・・休みを取ろう」
のろのろと重い腕を動かした。
「大佐?」
ひっそりとした声に気付いてハッと顔を上げる。
普段だったらコンスタントに書類を取りに来る副官が居ないので、没頭するかのように書類仕事をしていた。
と言うか、必要以上の事に気が回らない状態で作業していた。
そして終えて、動くのも億劫で目を閉じていたら少しばかり意識が飛んでいたらしい。
気付いたら部屋は夜の帳を滲ませ、いつの間にやらエドワードが戻って来ていた。
警戒をするような相手ではないから、と言っても、気付かなかったのは軍人としては情けない。
「・・・あぁどうした? 何か質問でも?」
鍵は少尉に返せと言っていたので、用事があるとすれば見解だろうとニコリと笑い掛けると、子供は眉間に皺を寄せた。
「アンタもう帰れ」
「・・・・・何故だい?」
横柄に言う子供にニコリと笑って問い返すと
「熱、あんだろーが!」
エドワードは声を荒げた。
「そんな事は、」
「鍵貰った時、手、めちゃめちゃ熱かったっての!」
「君が外から来たから手が冷たかったんじゃないのか?」
ビシリと言われるのに誤魔化してみるが
「・・・他の皆が気にしながら止めさせられないって事は、本当に急ぎの書類があったんだろうけど!もう終わったんだろ!」
子供は怒ったように、胸倉を掴んできた。
「君、不敬罪で・・・」
「誤魔化してんじゃねー!」
こちらの言いかけた言葉は無視されグイと引っ張られ、タタラを踏むようになりながら椅子から引きずられ、乱暴にソファへと突き飛ばされた。
「っ」
そのせいではなくグラグラとする視界。
「乱暴だなぁ・・・」
それに気付かれないように、文句を言うと
「うるさい。今ハボック少尉に車回して貰ってるから」
子供はバサリと人のコートを投げるように被せ、淡々と執務室の片付けを始めた。
「君が仕事を手伝ってくれるなんて、珍しい事も、」
「うるさい。少し黙ってろ」
ははは、と回らない頭で笑い掛けようとすると、目も合わさずバッサリ切って来た。
その横顔がいつに無く表情が無く、彼の機嫌を大分損ねている事に小さくため息を付く。
そんな顔をさせたい訳ではないのに。
「・・・心配してくれるのは嬉しいのだけれどね。私も軍人だから。大丈夫だよ」
「軍人だろうが人間だ。人間だったら風邪も引く」
「まぁ、そうだが・・・」
にべもなく、ごもっともな事を言われる。
エドワードはこちらに背を向けて、黙々と手際よく机を片付け終えた。
「・・・本当に、大丈夫だから。文献、まだ読んでいないだろう? ハボックが来るまで大人しく待っているから」
彼に風邪をうつしたくない気持ちもあって、笑ってそう提案する。
だから、資料室に戻って・・・と言い掛けて、
「・・・っ」
振り向いた彼の表情に、驚きに目を瞠った。
「・・・鋼の?」
彼の表情は強張り、今にも泣き出しそうな顔をしていて。
そんな表情など見た事が無くて、動揺する。
「ど、どうした?! もしかして風邪をうつしてしまったか? 君こそここに横になって、」
具合が悪いのだろうかと、慌ててソファから起きあがろうとすると、グイと、また強い力でソファへ逆戻りさせられた。
が、それよりもエドワードだ。再び半身を起こす。
「ほら、私は大丈夫だから、君、」
「・・・・・・・・・・・んで」
「え?」
「なんで、」
軍服の胸元を握り締めたまま、エドワードがポツリと言うのに耳をそばだてる。
「鋼の?」
「んで! なんで大人はそうやって無理して誤魔化すんだよ!」
エドワードが大声で胸倉を強く掴んで、それから、のろのろと項垂れた。
「鋼の・・・?」
視界の先のまだまだ小さな手は小刻みに震えている。
「・・・鋼の」
様子がおかしいことに思わずそっとその手に手を伸ばすと、しばらく俯いていたエドワードが顔を上げた。
その顔はやはり歪んでいて。
泣いている訳ではないのに、目元に触れる。
「はが、」
「ウソツキ」
ポツリと呟かれる。
「・・・ウソツキ、とは・・・。私は君に何か嘘を付いたかな?」
子供の様子が常と違うのでそっと笑いかけると
「その顔」
キロリと泣きそうな目で睨まれた。
「顔、か」
「・・・・・・・・・・・・た」
「え?」
「・・・母さんも、そうやって、笑った」
「・・・」
「大丈夫、って」
―――あぁ、そう言う事か。
いつも気丈な子供が、こうも精神的に不安定になる理由。
絶対の存在であった母親が、突然倒れて。
平気な顔をしているけれど、ずっと心の奥底に不安があるのだろう。
彼の母親の死後、身近な大人である自分。
彼の強張った顔の理由が分かった。
今頃気付くなんて情けない。
「・・・鋼の」
「一人で、無理してんなよ」
「・・・うん」
「皆、いるだろ?」
「・・・うん。そうだね」
「辛いなら辛いって、言えよ・・・無能」
「うん、悪かった」
目元に伸ばした手を滑らせて、頬に触れる。
「・・・熱い」
「うん、実は限界なんだ」
不機嫌に言う子供に、ヘニャリと笑って。
「寝ろ」
グイと押されて、半身を起こしていた身からソファに沈む。
「あぁ・・・。少し眠るからハボックが来たら起こしてくれ」
「おう」
身体の力を抜くと、ようやっとエドワードは安心したかのようにいつものぶっきらぼうな口調で答えた。
乱暴な口ぶりに潜む、優しい、心。
「・・・寒いからしばらく、傍に・・・」
「え? わ、」
小さな背中に腕を回して、自身の腹の上にゆっくり倒す。
抵抗は、ない。
両手で抱き寄せて、目を閉じる。
「暖かい・・・」
「・・・おう」
弱音を吐くのは、かっこ悪いと思っていたけれど。
良い大人だから、一人でどうとでも出来ると思っていたけれど。
自分は、一人じゃない。
そう、思っただけで。
堕ちる意識で、先ほどまで苛ませていた痛みが和らいだ。
―――君がいるから。
君と、君の弟の笑顔は。
きっと、母上の痛みも和らげていたと思うよ。
『私は”一人じゃない”から。あなた達がいるから”大丈夫”』
きっと。